【続】発達障害だっていいじゃない  ~鬱な私と4人の子供達~

発達障害の子供達も成人したので、これまでのことも書きつつ、50代からの奮闘の毎日をつづります。

別れた夫と亡き夫。ひとり親になるまでの長い道のり

別れた夫と亡き夫は同一人物。でも全く別の人のような気がしてならない。

 

21歳の双子の息子達は生まれてすぐNICUに入院していた。結婚してから3年3か月くらいの時だった。丁度その時、主人はガンの1度目の手術を受けた。5人家族で3人が入院という事態になってしまった。

 

会社の健康診断を受けている主人は結果を何年も私に内緒にしていたらしい。再検査の催促が何度も本人の携帯電話宛てに来ていたようなのだが、私は知らなかった。息子達の病院の帰りにポストを見ると、人間ドックの再検査の依頼ではなく、「早急に大きな病院で検査してください。」という書類があった。

 

次の日一緒に病院に行った。外科の先生から「ガンですね。切っちゃいましょ。」と言われた。入院ベッド待ちになってから3~4日で入院し、1週間くらい禁食で検査し、手術を受けた。回復して全摘になるか残せるか決めます。という説明があった。6時間以上の手術のあと家族が呼ばれた。「想像してたより立派なガンでした。」と摘出したものを見せられた。本当にタコの脚みたいにしっかりと根を生やしていた。

 

42日間の入院生活が終わり退院した。それからが大変だった。長女は2歳になったばかり、新生児の双子、術後の主人。術後は患部が腫れて、上手く食べ物が通らない。温かいおそうめんや、ゼリー飲料などでエネルギーを取るしかなかった。体重は手術の前と比べ、10㎏落ちていたと思う。手術の前は結婚した時より10kg痩せていたので20kgくらい落ちてしまった。

 

少しずつ食べ物が食べられるようになり、ダンピングなどの対処の仕方も覚えてきて職場復帰することになった。ただ、電気工事士なので重いものを持ったり、長距離運転したりデスクワークではない。職場に相談したが、本人自身もデスクワークが好きじゃなく1か月後くらいには元の仕事に戻っていた。

 

少し仕事に慣れてきたころ、最初の「解離」が起きた。仕事帰りに「帰るね~」のメッセージがきたのに、3日間帰ってこなかった。警察にも相談したが相手にしてくれない。義理の兄と一緒に主人の行きそうな街を足が棒になるほど歩いたが見つからず。3日目の夜、会社の人が主人を見つけて確保しタクシーで家まで送ってくれた。

 

帰ってきた主人は別人格だった。見たことのない別人の顔。ろくに会話もしない。朝まで話し合ってもらちが明かないので、病院に連れて行った。「解離」でしょうと診断を受けた。解離は女性や子供が虐待を受けたときなどに恐怖から身を守るために一時的に殻に閉じこもるような感じでその間のことはほとんど覚えていないことが多いそうだ。こういわれると責めるに責められない。お薬をしばらくもらってその後は落ち着いていた。

 

そしてさらに2年後三男が生まれた。三男が生まれる前とても悩んだのは事実だ。主人のガンが転移する可能性もある、でもその時「自分一人でも絶対に育てます」と神様と約束した。

 

三男が生まれて3週間後、主人が腸閉塞で緊急搬送された。しばらく入院して様子を見たが、もう一度手術しなければならなくなった。

 

開腹手術のあと先生にこう言われた。「腸の途中が完全にコンクリートみたいに固くなったガンの塊があり、それを切除し繋げましたが、ガン性腹膜炎というものが無数に広がっていて、それは毎月の検診でも分からないものでした。大きなものは取りましたが、全部取ったら人間は生きていけないのですべては取りきれませんでした。余命はあと2か月です。僕の知る限りこの状態から一番長生きした人で1年10ヶ月です」

 

それから6か月間自宅療養したが、もしかして奇跡が起きたのではないかというほど元気で希望まで持ち始めていた。

 

しかし電気工事士のもう1級上の試験日。そのまま帰ってこなくなった。家族全員で「頑張ってね~」と手を振ったのが主人を見た最後になった。夕方5時ごろになっても帰ってこなかった時、なんとなくそんな気がした「もう帰ってこないかもしれない」と口に出した。

 

再び「解離」が起きたことは間違いない。ただどこかの時点で我に返るはずである。私には言わなかっただけでお腹が痛かったのかもしれない。もう治らないと分かっていたのだろう。何週間か後に1次試験の合格通知が届いた。やはり試験は受けていた。帰宅途中で何かが起きたのだろうか。

 

余命わずかでも家族を捨てて良い訳じゃない。最後まで立派に闘病している人は沢山いる。でも自分が病気をしたわけではないからどれほどの恐怖が襲うのか想像もつかない。だから、末期で「解離」して別人格になっちゃったからであって、主人の本意ではなかったと思わなければ生きていけなかった。全く別の人だと思う事に決めた。

 

行方不明のままだとひとり親世帯と認められないので、弁護士さんに頼み、地方裁判所で離婚調停をして離婚が成立した。離婚したかったわけではないことを主人の家族には手紙で事後報告した。

 

こうして戸籍上もひとり親になったのだが、主人が発見されたのは行方不明なってから2年2か月後、白骨化した状態で見つかり警察からの連絡でその事を知った。正確に亡くなったのはいつのことだか分からない。

 

ここで終わると衝撃的すぎるので、どうか安心して欲しい。そんなことがあっても子供たち4人と生きてこられた。これは多くの優しい方々に助けていただいたお陰です。死にたくなったことも何度もあるし、精神的にも肉体的にも限界だと思う事も度々あった。でも死ななかったのは子供達がかわいいから。自分の命よりも大切な存在だからだ。だから生きてこられた。子供たちのお陰だ。みんなありがとう。

 

 

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