【続】発達障害だっていいじゃない  ~鬱な私と4人の子供達~

発達障害の子供達も成人したので、これまでのことも書きつつ、50代からの奮闘の毎日をつづります。

ふすま1枚向こうの宴会と心の故郷

私の父方の祖父はフランス料理のシェフだった。私が生まれてすぐ一度会ったことがあるが、その年に亡くなった。生きていれば明治生まれの132歳。私の記憶は店の前での写真とバイクに乗った祖父の写真しかない。

 

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*画像はイメージです

 

第一次世界大戦前フランス料理店をしていた祖父には妻と7人の子供がいた。戦争が始まり出征。帰ってきた時、妻に愛人がいたため即刻離縁し、私の実の祖母と再婚した。

 

第二次世界大戦がはじまり、最初の妻の息子達が出征し、2人戦死した。実の祖母も7人の子を授かった。戦争が激しくなり、下の7人(正確には父はまだ生まれていない)を連れて東京から疎開した。そこで営んでいた小さな料理店。そこが私のおばあちゃんちだ。

 

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*画像はイメージです

 

毎年お盆とお正月はそこに行った。私から見ると1歳上、2歳上、3歳上と延々と続く年上の数えきれない従兄・従姉たちに遊んでもらった。ほとんどは近くに住んでいて、東京に帰ってきているのはうちの家族と横浜の伯父さんの家族くらいだった。父と横浜の伯父さん(若くして亡くなった)はびっくりするほどそっくりだった。伯父さんの写真と父を間違えてしまうくらいだ。

 

 

祖父亡き後も祖母も伯母も調理師だったので小料理屋を続けた。泊りに行ってもお客様優先だから、ふすま一枚向こうで宴会が始まる。夜中3時くらいまでカラオケ大会だって行われる。その傍らで眠れるわけが無い。でも不思議と嫌な気は全くしなかった。むしろ伯母達の喋りが面白くてふすまのこっちで笑いをこらえるのが大変だった。どんなお客さんであろうと楽しい気分にして沢山飲ませて食べさせて笑わせてお帰り頂く。プロフェッショナルだった。いつまで聞いていても飽きなかった。

 

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*画像はイメージです

 

したがって、次の日の午前中は誰も起きてこない。私は弟と一緒に近くの公園にお腹を空かせながら遊びに行った。海の近くで潮風が吹き、水道水でさえ海の匂いがする街。少し歩くと港に出る。多くの漁船が行き来する。道端に海藻や小エビや貝殻が落ちている漁師の町。一度主人と娘と双子を連れて遊びに行ったことがあるが、今はもう大好きな伯母も亡くなり店もなくなりとても寂しい。

 

故郷のある人って羨ましい。そこは私の故郷ではなく父の故郷だ。父が帰省すると、いとこたちは一番若い叔父が帰ってきたもんだから、大はしゃぎだし、何気に父はいい男で定評があった。従兄たちの中で誰が一番私の父に似ているかコンテストが行われたりした。近所の同級生やそのお母さんや元カノとか知り合いだらけでめっちゃくちゃ楽しい。

 

私には故郷って程の故郷はない。育った町から車で15分ほどの所に今も住んでいる。幼馴染が少しいる程度だ。自分の故郷ではないが、皆を楽しませてくれた伯母たちの話術と料理は心の故郷である。しかし自分の子供達には心の故郷さえ作ってやれなかったと後悔している。やっぱり故郷ってあったほうが良い。